三砂ちづる「子どもを抱く喜びにひたってほしい」

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こどもはかわいくてかわいくて仕方ない存在だけど、
ときに、ほんとイライラしたり憎らしく思ってしまったりする存在。

タイトルは、先日、インスタグラムを通じて知った三砂ちづるさんの詩。
たまたまその日は少し落ち込んでいたのだけど、この詩で気持ちが楽になりました。

なので、いま小さなお子さんがいる方へ。よかったら読んでみてくださいね。

【「子どもを抱く喜びにひたってほしい」三砂ちづる】

今あなたはとても忙しいと思う。

慣れない幼い子どもとの日々に翻弄され
やってもやってもやるべきことが終わらない
家の中のあれこれにため息をつき、
まして外で仕事のひとつもしていれば、
なんで私だけがこんなにがんばらなきゃいけないのよと、
腹のひとつもたち、
穏やかにぐっすり眠ってとろとろと夢を見る、
ということ自体が、
どこか遠い世界のようの思うのかも知れない。

おむつもかえなきゃいけないし、
おっぱいもあげなきゃいけないし、
ちょっと大きくなったら
「ママおしっこ」と起きてくるし。

ああ、わたしは毎日忙しい。

ゆっくり夢をみること自体が「夢」
ゆっくり眠りたいだけ眠った、
なんていつのことだったかしら。

残念なことに、
とうか幸いなことに、
というか、時間というものはゆくりなく過ぎ、
いま、あなたがやっていることはあと数年と続かない。

彼らは学校に行くようになり、
あなたの知らないところで
あなたの知らないことをする時間が増え、
あなたは夜はもう少しよく眠ることができるようになる。

そうすると朝早くから起きて弁当のひとつも作り、
子どもの外のおつきあいの後始末などもしなければならなくなってくるけれど。

つまりはフェイズが移る。

私はもう50を過ぎている。

2人いる子どもは青年になり、
文字通り毎日どこで何をしているのやら。
見上げる青年になって、
私の知らない彼らの日常はまぶしい。

この人たちはもう私の「手の内」では生きていないのだ。

ときおり私は夢をみる、
夢の中には子ども達2人がよく出てくる。
その彼らは、けっして今のような「男に育った」彼らではない。
夢に出てくるのは幼い彼らだ。

お話ができて、
自分のひざにのってくれるくらいの子どもである彼ら。

おそらくあと50年生きても、
夢の中の私の子どもは、
この大きさであるに違いない。

あのね、ママ、あのね、と、
とても高い声で私を見上げ、
「つまらないこと」をいちいち聞きに来たリ、
報告したりする息子たち。

私がしゃがまないと、
彼らの視線とは合わず、
抱きしめれば腕に足り、
抱き上げれば、そのまま移動できる重さ。
私の手の届くところにいる彼ら。

おかあさん、
今あなたのひざにいるお子さんのなんといとおしいこと。

母として、
いちばんよい時期。
いちばん印象に残る時期。

あなたの子どもはいつもその大きさで、
あなたの夢の中で位置を占め続ける。

あなたが人生でつらいことがあった時、
あなたの子どもたちは、
そのような大きさであなたの夢の中に現れる。

それが現実と交錯する今こそが、
あなたの幸いでなくてなんであろうか。

涙ぐむようにして、
幼い子どもをかきいだく喜びにひたってほしい。

それはひとときの至福であり、
長き人生のうちで一瞬にして失われる、
人生の最も美しい時間だからである。

 
 
 
まさに、我が家の5歳の息子たちは「あのね、あのね」「なんで?」「どうして?」とつまらないことをいちいち報告し、聞いてくる時期。
私がまだ食事中なのに、膝の上に乗りたがったり。
いつもなら、てきとうに流してしまうこともあるのだけど、
今だけかと思うとそれもかわいいと思えてくるから不思議。

正直、二人揃って膝の上に乗られるとかなり重いし、
ジッとしているわけでもないので居心地悪いのだけど、
目の前にある小さな背中を眺めながら、いつかこの背中を思い出すのかなぁと思うと泣けてくるな。

 
今日は幼稚園からの帰り、些細なことで双子長男の機嫌が悪くなった。
自転車の後ろのチャイルドシートに座ったまま、私の背中を蹴ってきた。
「やめて」と言うと、また不機嫌に。

家に着いて、おやつも食べて、そんなことも忘れたころ、長男が私に「ママ、さっきはごめんね。」と言ってきた。
一瞬なんのことか分からず「なにが?」と聞くと「さっき、せなかけったでしょ。ごめんね。」と。

え?そんな技持ってたっけ?と驚いたし、そんな気持ちになってくれたことが嬉しかったのだけど、妙に彼の成長を感じて少しさみしくなりました。
ほんと今だけなんだなー。大事にしないと。